「待って!」



 大声で彼女を制止させたのは、買い物に行ったはずの母ではなく、このところ顔もぼんやりとしか思い出せない父ではない。

 生ぬるい白い体。
 丸みを帯びた米粒のような肢体。
 節々を折り曲げた四肢は窮屈そうにわき腹に沿い。

 細い口元はキュートだなんて言えるはずもなく。
 ぽつりぽつりと生える毛は寂しく、どうせなら抜いてしまえばよいのにと世話を焼きそうになる。

 それはおそらく、小学生の頃に教科書で見たアレだ。
 猫とかにくっついているアレ。
 夏に大発生する───



「…………ノミ?」
 多分。



「落ち着いてください」
「いや、あたしは落ち着いてるけど。
 震えてるのはあんた」
 ぷるぷると震える前足の先は今にも彼女を刺しそうだ。

「と、とにかく座りましょう」
 彼女は最初から座っている。

「よっこいしょ」
 ノミは(勝手に)お尻(らしきあたり)を絨毯に付け、細長い前足を前習いさせ、後ろ足でアンバランスな体を支えた。

 視覚的にヘンだ。

 彼女の部屋は六畳半。
 クローゼットは造りつけとしても、机とベッドとテーブル。
 彼女とノミ。
 これだけで部屋が窮屈になるなんておかしい。

 それもそのはず。
 机とベッドとテーブルと彼女は世界的標準にあてはまるが、いきなり不法侵入してきた(いや、居たかもしれないけど)ノミは、飛び出た目玉が彼女の肩の高さにくるほどでかい。
 無駄にでかい。



「あんた、何?」
「ノミです」
「そう。で?」
「待ってください」
「待ってるけど」
「もう一度よく考えてください」
「どう考えてもあんたのデカさは異常」

「僕の大きさはこのさい、横に置いておいてください!」
「置けないよ、この部屋、狭いんだから」
「置いてください!」
「置けないって」
「お願いです!」
「ムリだっつーの!」

「縦線で……
 縦線でお願いします!」


 何を?

 縦列か?
 縦列でノミを置けってか!

 殺虫剤を間に置いてやる!



「あなたの人生を横線で終わらせないでください」
「はぁあ?」

「あなたに沿って直線で。
 真っ直ぐ前に向かった縦線で。

 これからもずっとずっと、生きていけるんですっ」



「…………」


 下を見た。
「…………」
 絨毯に小さなシミがあった。

 右を見た。
「…………」
 黄色くなった本が並んでいた。
 あの雑誌、去年のじゃん。

 下を見た。
「…………」
 まだ絨毯のシミがある。

 左を見た。
「…………」
 最後にカーテンを開けたのはいつだろう。
 窓から何が見えたんだっけ。

 下を見た。
「…………」
 まだ、シミがある。



 前を見た。
「…………」

 バカでかいノミ、一匹。
 いや、このでかさだと一頭だ。

 そのノミの手(?)には、さっきまで彼女の右手にあった剃刀が握られている。
 器用だな。
 ドラ○もんみたいに手に吸い付いてる。

 もうちょっとでその剃刀は、彼女の皮膚を切って肉を割き、血を滴らせるはずだった。
 もうちょっとだった。

 あとほんの少し。
 あとほんの少しだけ力を込め。
 横に引けば。

 彼女の人生は裁断されるはずだった。
 自分自身の手で終わらせるはずだった。



 あとちょっとの力。

 あとほんの少しの勇気。



 振り絞る先が死ぬことだなんて。
 終わってる。
 もう終わってるんだ、自分。

 そう思うと、バカらしくなった。

 終わってる人間が死のうだなんて、ムリだ。
 だって、終わってるんだから。

 もう終われない。



 もう、終わった後だったんだ。



「死ねないんだ」
「はい」

「怖くってさ」
「はい」

「痛そうだし」
「はい」

「血、嫌いなんだ」
「はい」

「剃刀、お母さんの」
「はい」

「顔、剃ってたやつ」
「はい」

「かえ…………っ」
 返さなきゃ、と言おうとした。
「はい」
 ノミがうなずきながら答えた。

 彼女に向けてもち手を返し、剃刀を絨毯に置いた。
 剃刀が濡れた。
 雨が降って、ぴちゃ、とかすかな音を立てた。

 絨毯にシミを作った。
 しばらくすれば乾いて消えてしまうシミを。
 彼女の涙が付けた。

「刃は、横に寝せても切れません。
 縦にして初めて、切れ味が出ます。

 あなたも、横線ではなく縦線で、生きていてくださいね」



 ふるるん、とノミの巨体が揺れた。

 ふるるん、ふるん。

 ふる、ふるん……

 揺れて崩れて、解けて消えた。



 大きなノミがいなくなった部屋が広く感じた。

 吐く息が白い。
 部屋にはエアコンがない。
 ストーブもコタツもない。



「…………」
 彼女は立ち上がって、久しぶりに部屋の扉を開けた。

「お母さーん。
 ストーブあったっけー?」

 久しぶりに、自分から母を呼んだ。